洗体戦隊

クソ大学生の日々の日記

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今、僕は大学五年生だ。いっしょに入学した仲間はとっくに社会に巣立っている。大学五年で一番つらいことは仲間がいないことだ。飯を食う仲間もいなければ、空きコマに語り合う仲間もいない。周りが楽し気にしているだけ余計に孤独感に苛まれる。

 

まあこれは僕個人に言えることなのかもしれない。サークルやゼミなどに所属している人は仲が良い後輩がいるだろう。しかし僕は何にも所属していない。そういった学生生活を送ってきた僕のような人間はおそらく大学五年になってしまうと確実に独りぼっちになる。一緒に入学した奴らぐらいしか接点を持っていないからだ。

 

大学は開放的孤独で、小・中・高までは閉鎖的孤独だと思う。つまり大学は孤独でいることが周りにあまり知られないということだ。例えるならば都会の雑踏で一人でいたとしても誰も気にしない。それと同じことだ。小・中・高は逆だ。しかし先にあげた辛いということから矛盾するが、現代人には今の僕のような開放的孤独を味わう一定の時間が必要なのではないかと思う。閉鎖的孤独はちょっと厳しすぎると思う。社会的動物である人間にとってはグループに所属しないことは本能的に恥ずべきことと刷り込まれている。それが周りに露呈されるなんてことははっきり言ってこの世のどんなことよりも耐え難いんじゃないかと思う。グループに所属しないことがいじめに温床になっていることは言わずもがなだ。だから開放的孤独がちょうどいい。

 

この開放的孤独は自分と対話の時間となる。現代人は本当に様々な情報が心身になだれ込んでくる。SNSで他人といつ何時でも繋がれる。故に自分との対話の時間が持てない。自分のとの対話の時間が持てないと自分の本当にやりたいこと・求めていることなどがわからないんじゃないか。流れの早い川の中であっぷあっぷしている感じといえばいいだろうか。そんな状態では特に大学生活という折角の社会に出る前の最後の自我の形成期間としての意味がが損なわれるのではないか。

 

だから僕たち大学生は進んで開放的孤独を享受するべきなのではないか。と思うのだがこれはやっぱりぼっち生活を肯定するためにひねり出した論理として受け取られるのだろうか。それが心配だ。まあそうなんだけどね。