洗体戦隊

クソ大学生の日々の日記

ゴールデン

世間はゴールデンウイーク真っ只中だ。皆様方はきっと家族・友人あるいは恋人と様々なところでお出かけしていることと思う。そんな中、僕は一人で大学の図書館(諸事情で半期卒業を遅らせた。突っ込まないでくれるな)でひたすら本を読んでいる。ゴールデンウイークということもあり図書館に人はほぼいない。しかし負け惜しみでも何でもなく僕はこんな孤独で静謐な時がいつまでも続いてくれればいいなと思っている。本当だ。それ以外は何もいらないとさえ思う。静かに本を読めればそれでいい。

 

ただ少しだけ欲を言わせてもらえば、スタバの新作飲んどきたいし、コストコ一回行ってみたいし、体重を無理せず三キロ落としたいし、夏物の服も欲しいし、五反田のアロマも行っときたいし、ローソンのゲンコツメンチ食べときたいし、ハワイのエッグの食べときたいし、今週中に髪を切っときたい。

 

 

職業貴賤は本当によろしくない。

最近何かと芸能人がAVに出演し話題になっている。そしてそれを表す際に僕の周りの多くの男友達が「堕ちた」とか「終った」という言い方をするので僕は首をかしげている。彼らはなぜ普段マスターベーションの際にAVを見ているくせにそういったAV女優たちを卑下するような言い方ができるのだろうか。別に尊敬しろとまでは言わないが差別の目を向けるのはどうかと思う。かといって何も僕も全面的にAV女優たちの肩を持っているわけではない。他人とカメラの前で平気でフェラチオをして本番もやる精神性はやはりどこかおかしい。決して普通のものではない。実際にイベントやツイキャスで接してみて彼女たちから何とも言えない違和感はしかと感じた。

その違和感とは異常なまでの将来の計画性・性に対する羞恥のの欠如だったり、一言では言うのは難しい。ただ確実に言えることはバランスが悪いということだ。からだと精神のバランス、日常と非日常のバランス、鎮静と興奮のバランス、それらがねじれていて、とても危うい印象を受けた。

事実としてAV女優の失踪率はかなりのもので、恋人に対する依存度も異常なものがあった。しかしそういった彼女たちが出演するAVを見て僕たちは日々性欲を満たしている。AVを見たことがない男なんてほぼいないだろう。そしてAVのおかかで性犯罪もある程度は抑制されているとも言える。

いわば彼女たちはある種の社会貢献すらしているといえる。そんな彼女たちに感謝こそすれ馬鹿にすることがなぜできるのだろうか。僕たちが彼女たちにできることは感謝しかないというのに。

欲求のレヴェル

男子諸君に問いたい。あなたにとって理想の彼女とはどういったものだろうか。料理上手な家庭的な彼女?何度抱いたって飽きが来ない床上手な彼女?道を歩けば誰もが振り向くような圧倒的な美貌を持つ彼女?もちろん。人の数だけ理想の彼女像はあるというのは重々承知している。

しかし僕は今日敢えて提唱させてもらいたい。全ての男が付き合ったら幸せになれる彼女像。それはレベル7(セブン)の女だ。レベル7(セブン)の女。それは文字通り七点の女という意味だ。つまり十点満点の美人でもなく、かといって一、二、三点というブスでもない。

なぜなら男いうのは美人過ぎてもプレッシャーを感じてしまい、かといって妥協に妥協を重ねてブスと付き合ってもどうにもテンションが上がらない。そこで七点の女が出てくる。美人というほどでもないので常に楽しませればならないというプレッシャーを感じることもなく、決してテンションがダダ下がるようなブスでもない。男に安心感を与えふとした時に見るとまあまま可愛いじゃんという発見もある。

なので僕はレベル7(セブン)の女を提唱したい。

 

売店

今日自分の中でパラダイムシフトのようなものが起こったのでここに書き起こしたい。僕はいつも通りスーパーのアルバイト(まだ学生なのでね(≧▽≦))をしていた。仕事の内容は掃除と品出しで夕方からクローズにかけての仕事で要するに後始末的色合いが強い。汚い床を掃除し排水口の汚れを落としている時は俺は一体ここで何をしているのだろうと自問自答することが多いくなる。

周りはもう社会人なのに俺は一体何をやっているのだろう、こんなバイト今すぐにでも辞めたい。俺がネチョネチョとした汚らしい排水口を掃除してる間にもかつての仲間たちはピカピカのオフィスで颯爽をビジネスの世界に身を投じていて刻一刻と彼らとの差が広がっている。

そんなネガティブ地獄に陥っている時に、ふと顔をあげるとそこには非常に肉感的な体つきをして女が立っていた。やや太り気味はではあるが超ド級のおっぱいを持っていてケツと太もももムチムチしていた。顔も七十点くらいでなんというか一番そそられるレヴェルの顔面をしていた。

俺はその瞬間、これでいいやあと思ってしまった。この女みたいな体つきを抱くことができればそれでいいやあと思ってしまったのだ。さっきまで留年したハンデをなんとしてでも取り戻そうとしていた自分が馬鹿らしくなる。俺は結局他人の目を気にして、他人の尺度で自分のことを考えていた。

でも結局はそれだと本当に幸せにがなれない。他人じゃなく自分の心の声をよく聞いて、その声に忠実にならないとダメなんだ。そして俺の場合はその声は月に一回は風俗か何かでエロい体つきをした女を抱ければそれで幸せだということだ。それで十分幸せじゃないか。

富とか名声とかそんなもんこれっぽっちもいらないんじゃないかと言っているのだ。ってさっき思ったんだけど、これってやばくねえ?

飲み

今日は久しぶりに仲間と居酒屋で飲んでからカラオケに行った。仲間がケツメイシの「さくら」を歌っていたのだが本家のPVが使われていて、それに出ていた男にかいがいしく寄り添う鈴木えみを見ていたら何故か涙が出てきた。その瞬間僕の中にあるともかく大勢の人間になんでも良いから認められたいという特大の承認欲求がガラガラと音を立てて崩れ去った。

これまでの僕の行動指針は如何に不特定多数の人間に認められるかどうかの一点に完全に集中していた。そのために自分比で他人よりはまだ才能のマテリアルがある文章をコシコシと飽きもせず毎日毎日書いていた(あくまでも自分比であって他人からしたら僕の文章なんて素人以下、これっぽっちの才能もねえよ馬鹿と思う方がいても何ら不思議でない)わけだが、さくらに出てくる恋人にかいがいしく寄り添う鈴木えみを見て僕は不特定多数の有象無象に認められたいのではなくたった一人で良いから自分のことを理解してくれてどんな時でも支えてくれる存在が欲しいだけなのでないか、そういった存在が身近にいることが至上の幸福でありそれ以外は何もいらないのではないかと思ってしまった。

しかし仲間と別れ家に着くとやはり飽きもせずブログを書き、小説シナリオ崩れのようなものを睡眠時間を削ってでも書いている僕は大勢の人間に認められたいのだという特大の承認欲求が自分の中に健在なく顕在していることを痛感した。僕はまだまだ落ち着けそうにない。

降灰

昨日のブログであまりにも下ネタがひどいからこれからはインテリジェンス溢れる内容にしていきたいと書いたが僕にはやはり無理そうだ。そういった内容だとさっぱり指が動かない。思ったことは文章を書くに当たっては「書きたいこと」と「書けること」は全くの別物であり、無理に書けもしない内容のものを書く必要はないということに気が付いた。

書き手にとっての「書けること」というのは、書き手自信を構成するもの、云わば自分自身なわけでそれがその書き手の唯一無二の「センス」ということになる。つまり「書きたいこと」はどこか別のレイヤーから引っ張ってきたものに過ぎないからすぐにボロがでる。

反対に「書けること」は書き手自身を構成する自分自身でもあるわけだから必然的に他の追随を許さない濃厚なものになる。なので俺に書けること、つまり下ネタを書こうと思う。

 

告白するが俺は包〇だ。もう一度言う。〇茎だ。故にコンドームを付けるときに包皮が捲れて、痛ててて!あ痛てててて!となり、ねえゴム付けなくて生でしていい?イク時はきちんと外に出すからさ!と問い大目玉と張り手を食らうことになる。

勘違いして欲しくないのは僕が、生のほうが気持ちいいじゃんよーというような下衆な発想の下にこんな発言をしているわけではないいうことだ。包茎のためコンドームを付けると皮が捲れて痛いという致し方ない理由の下での発言だということだ。そのあたりのことをきちんとして欲しい。

だからゴム無しOKピル飲んでるという方がもしいたら顔写真(サギ写なし)付きのメッセ送ってもらっていいですか?

あんあん

表現について語ろうと思う。ブログ書いてるくらいで何言ってんの?あんたばかあ?と言われそうだけど自分のことを表現者の端くれだと勝手に思っている。僕には表現者としての資質があると思う。なぜなら僕はブログを通してでしか承認欲求を満たすことができないからだ。

命の危険性が限りなくないに等しい今の日本ではいかにして承認欲求を満たすことができるかが重要になってくると思う。家族、仲間、恋人などに恵まれている人は表現なんかする意味はないだろう。表現などしなくても家族、仲間、恋人が承認欲求を満たしてくれるからだ。

しかし僕のようにそれらに恵まれていない者は表現活動に打ち込むしかない。表現活動に打ち込む、作り上げた作品によって有象無象の者に認めてもらうしかないのだ。(ここではブログも作品だということにする。させてください。)僕の好きな作家の言葉にこんなものがある。「米を一俵脱穀したとする。すると必ず十粒くらいそのまま出てきてしまう。表現というものはその十粒を救うためにある」

この作家の言わんとすることがわかるだろうか。脱穀されずに出てきてしまった十粒、つまり出来損ない・はじかれ者ということだ。そしてそんな者たちの救済手段として表現が存在するということを意味している。

陰日向に咲く者たちのために表現は存在するのだ。と今日はなんか真面目なことを書いてしまったわけだが、なぜいきなりこんなことを書き出したかというと自分のブログを読み返してみると下ネタのオンパレードに我ながら情けなくなってしまったからだ。

本当に情けない。しょうもない。かっこ悪い。もっと知的なユーモア溢れるブログにするつもりだったのに。まあそういうわけで今日は真面目な記事になってしまいました。